
1985年に入社当時は、新潟店で修理やイヤモールドの製作と営業を担当。その後、製造部立ち上げのため上京し、製造部の責任者、開発部立ち上げ後は製造開発部門の責任者を歴任。5年前に営業として新潟に戻り、新発田営業所で営業に従事。
4人だけで始まった東京の製造部
―マキチエに入社した当時のことを教えてください
今年で入社36年目になります。入社当初は店頭で補聴器の修理やイヤモールドの製作を行っていましたが、人手不足もあって営業にも回っていました。新潟大学病院や新潟聾学校をはじめ新潟市内の病院を中心に担当し、聾学校では学生の耳型を採取してイヤモールドを製作していました。今でこそイヤモールドの型は3Dプリンターでつくれますが、当時は国内で製作できる会社は少なかったのです。
5年ほど経った頃、東京で製造部を立ち上げるので、上京するよう先代の社長に言われました。最初はたったの4人で、新宿で小さな製造部をスタートさせました。
製造開発部の責任者として
―東京ではどのような仕事をされていたのですか
社長とともに工場をつくり上げていくことが主な役割でした。2か月間、アメリカで耳あな型補聴器の製造研修を受け、その研修で得た技術を自社の製造部に定着させました。その後は製造開発部を立ち上げて、開発から製造、販売まで手がける会社となり、製造開発部の責任者を約 25 年間務めました。
半年かかる製造研修を
2か月でマスター
―長いキャリアの中でも特に思い出に残っていることは何ですか
アメリカ・ミネアポリスの耳あな型補聴器製造研修です。先代の社長とともにアメリカへ渡り、研修のため私ともう一人の社員が現地に残されたのですが、英語もあまりできなかったので、大変でした。当初、研修は半年間の予定でしたが、早くマスターできたので、2か月で帰ってくることができました。先代の社長は、常に新しい技術を導入するために、世界を見ることの大切さを常々語っておられました。


さまざまなことに挑戦できたので
飽きずに仕事を楽しめた
―長く勤めてこられた理由を教えてください
当時、日本の補聴器は世界に比べて遅れていましたので、世界に追いつくため、
先代の社長が「世界一になろう」と掲げていました。海外研修だけでなく、海外メーカーとの取引などでさまざまな場所へ行かせてもらい、世界を見せてもらいました。
製品導入や販売戦略、製造開発部でのシステムや運営管理といった幅広い業務に携わることができ、経営の手伝いもさせてもらえたことは大きな喜びでした。困難なこともありましたが、一つのことだけでなく、さまざまなことに挑戦させてもらえたので、飽きることなく、楽しみながら取り組むことができたのが、長く勤めてきた一番の理由だと思います。
積み重ねてきた経験が
すべて今に生きている
―製造開発部から営業に戻っていかがですか
5年前に営業として新潟に戻り、2018年12月からは新発田営業所で勤務しています。製造部にもいましたから機械の細かな特徴まできちんと説明することができるので、患者様だけでなく、販売員や営業からも質問されることもあり、これまでの経験が今に生きているのは大変うれしく感じています。
